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2013年12月14日 (土)

昨日の続き「ケ・サラ」の人物像

今朝も冷え込みが厳しいですが、元気に5時起床 !!
いつものようにトーストサンドにコーヒーで朝食をとっています。
今朝のBGMは「平和に生きる権利」ビクトル・ハラを聴いています。

昨日の「ケ・サラ」の紹介は、「ジョー・ヒル」だけでしたので、他の方々の解説をしませんでした。其お詫びにと言う訳で.・・・”ケ・サラ”日本語詞・曲はこちらからどうぞ。(http://bunbun.boo.jp/okera/kako/kesara.htm

『グエン・ヴァン・チョイ』

電気工グエン・ヴァン・チョイ(Nguyen Van Troi)は、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の兵士でもあった。1964年、当時の米国国防長官の暗殺を企てた罪により、南ベトナム政府によって公開処刑されることとなった。

処刑の直前、彼は毅然とした態度で米国軍を批判し、祖国への愛を叫んだ。その姿は集まった大勢の聴衆や各国報道陣に強い衝撃を与え、主に共産圏諸国で連日のように報道された。死の翌年には彼を描いた切手が発行され、彼の名前は今なお、道路や橋の名称として残されている。共産国キューバにも、「グエン・ヴァン・チョイ・スタジアム」という野球場が存在する。

『小林多喜二』

1903年(明治36年)秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)の小作農家の[2]次男として生まれる。当時北海道小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死。4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画[3]や文芸誌への投稿[4]や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。

卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキ[5]に出会う[6][7]。タキは父親が残した多額の借金により13才の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする[8]1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。

1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された。だが同時に警察(特に当時の特別高等警察)からも要注意人物としてマークされ始める。『蟹工船』『一九二八年三月一五日』および同年『中央公論』に発表した『不在地主』などがもとで拓銀を解雇(諭旨免職)[9]され、翌年春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙貴司山治片岡鉄兵らと京都大阪山田松阪を巡回講演。23日に大阪で日本共産党へ資金援助の嫌疑で逮捕され、6月7日、一旦釈放された。

24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。その後神奈川県七沢温泉に篭る。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。(ウィキより)

『ビクトル・ハラ』

チリ南部チジャンの貧しい農家に生まれ、10歳の時首都サンティアゴに家族で移住。16歳の頃パントマイム劇団に加入し、その後チリ大学演劇学部に入学。同じ頃、民謡の研究演奏集団にも加入。

1961年、チリ大学付属演劇研究所に勤務し、舞台演劇の演出を次々と手がける。それと並行し、1965年頃からシンガーソングライターとしての活動も開始する。

1969年チリ・カトリック大学主催の「新しい歌」フェスティバルに参加し、『耕す者への祈り』(La plegaria a un labrador)で優勝する。

1970年チリ人民連合によりアジェンデ政権が成立したが、1973年9月11日アウグスト・ピノチェト将軍の軍事クーデター(チリ・クーデター)によってアジェンデ政権は崩壊。その直後、ビクトル・ハラは軍に逮捕され、チリ・スタジアム(屋内競技場。エスダディオ・ナシオナル・デ・チリとは別の場所)に連行された後、虐殺された。

連行されてきた多くの市民を励まそうと革命歌ベンセレーモスを歌ったところ、ギターを取り上げられ、「二度とギターを弾けないように」と両手を撃ち砕かれ、それでも歌いやめなかったため、大衆の面前で射殺されたという伝説が流布されたが、しかし、現存しているクーデター時の写真などによれば、連行時は後ろ手に両手を組まされて軍の銃で監視されていたはずであり、そもそも、ギターなどは持ち込めたはずがないのが実情であった。事実は、手拍子で同曲を歌ったところ、兵士に地下に連行され、そこで銃で殺害された。 このときの犯人である兵士3名は、2009年になって、チリで逮捕、訴追されている。また2013年には、首謀者ペドロ・バリエントス(2013年現在アメリカ・フロリダ州在住)を含む残りの4人に対してもサンティアゴの控訴裁判所から逮捕状が発行された。

彼が虐殺された現場であるチリ・スタジアムは、民政復帰後「ビクトル・ハラ・スタジアム」と改名された。 また、2009年12月、サンティアゴにて、ミシェル・バチェレ大統領等の出席の下、公式の葬儀が行われた。(ウィキより)

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